第一章 ジェイムズ経験論の輪郭
第一節 ジェイムズの生涯と性格
まずわれわれはウィリアム・ジェイムズについて彼の息子及び彼の弟子のR・B・ペリーの手記、それに彼自身の言明を通じてエピソディックに綴ることによって、概括的にイメージを彷彿させてみる作業を、これから進めるジェイムズ思想研究に不可欠なそれと考えよう。
われわれのウィリアム・ジェイムズは一八四二年、ニューヨークにおいて、ヘンリー・ジェイムズとメリー・ワルシュの長男として生まれている。ジェイムズの父方の祖父は一八歳の時アメリカに渡り、そこで大きな財産をえた冒険家である。この祖父がまずアメリカにおけるジェイムズ家の家風をうちたてた。その子即ちジェイムズの父はこの祖父の三番目の夫人の第二子であったが、少年の頃に化学実験の失敗によって片足を切断したことがジェイムズに大きな影響を与えたといわれる。というのは、この不運が結局ジェイムズの父を家庭内の仕事に従事させ、常時子供と接触する機会を作ったからである。そのためジェイムズはこの父の内面の生活を十分に理解した。
ペリーによれば、ジェイムズは「彼の父から多くのものを導き出し、多くの方面において著しく彼と類似していた」(一)といわれる。しからばこの父の生活とは何であったのか。彼の父は「全く彼の本と彼のペンと彼の家庭、彼の友とともに生きた」(二)人間であった。彼はジェイムズ一族の中で実業的な世界から学問と思索のそれへと生き方をかえた最初の人間であった。彼はエマーソンやサッカレーやカーライルとの交友関係をもち、自らは疑惑と反問の内面生活をどこまでも続けている。この父の生き方は家族にも影響を及ぼしたのはいうまでもない。ペリーが大著『ウィリアム・ジェイムズの思想と性格』を次のような書きだしでもってはじめているのも無理からぬ話である。「ジェイムズが成熟するようになった家庭的環境はその家族の人間を刺激し形成するに普通以上の影響をもっていた。……父のヘンリー・ジェイムズは日常的に拘束する職業とか、公けの職務につかせる職業をもっていなかった。時々の公けの講演を除いては研究と瞑想と執筆が彼の転職というべき活動のすべてであり、その仕事は家族にはっきりとみられるところでなされていた。他の家族のメンバーは『父の考え』について知らなかったし、無関心でさえあり、又父の本になにが書いてあるかをほとんど知らなかったけれども、『その考えの強い性質をなんとなく感じて』……それが『最後には永遠にすばらしいなにかが行われているしるしとして感じられた。』」(三)
ジェイムズの父が思索の対象としたのは宗教であった。しかし彼はそれの制度的なあり方に反対し、教会とは無関係の独自の宗教の確立を希求していた。そしてすでに制度化されていたカルヴィニズムに対する批判とスウェーデンボルグの信仰、フーリエの理想社会への共鳴にその具体的行為をみいだしたのであったが、彼と同時代の、大多数の無批判的な人達によってうけいれられている教条や心情に身をあずけるには彼は「あまりにも遅すぎた」(四)神学者であり、又科学的探求の世代が彼の息子達に与えた方法、発見、展望を利用するには「あまりにも早すぎた」(五)懐疑論者であったがために、世間からは見はなされていた。(六)そのような父の性格と思想がその息子達において理想的にうけつがれているとみるのは正しいだろう。
われわれはそれを本書の主人公であるジェイムズと後に文学者として大成した一つ違いの彼の弟ヘンリーの二人の中に見いだすのである。彼ら二人について、後に兄のウィリアムは小説のような哲学を書き、弟のヘンリーは哲学のような小説を書いたと比較されたが、この事実こそ表現形態において二人の特徴が端的に区別されているものの、実は同じ根からの結実を示しているといえるだろう。
そのジェイムズはアメリカの伝統を最も端的にうけついだアメリカ人であると同時に、最もヨーロッパ的な色彩に彩られた思想家である。この二つの特徴がジェイムズにおいて何ら矛盾なく調和されていたのは、一つには彼自身六八歳の死の年に至るまで、幾度となく、時には長期間にわたって、ヨーロッパの土を踏んで親しみを感じていたせいである。しかしなによりもジェイムズが人間を民族や国家の制約のもとに考えず、コスモポリタン的な見地に立っていたことであろう。即ちそれは彼なりの哲学に根ざしていたのである。
だがそれであってジェイムズはやはりアメリカ人であった。ジェイムズが「何とヨーロッパは窮屈で劣っているのか」(1)と、かつて弟ヘンリーに言ったのはアメリカをはなれイギリスに永住した弟ヘンリーに対する訪問の挨拶であるが、同時に生々しくスリルにみちたアメリカへの愛着を示したものともいえる。それはジェイムズにとってはヨーロッパは古く、アメリカは新しいという考えからきているのはあきらかであろう。
しかしここでもジェイムズがヨーロッパの精神になじんだ原因を作ったのが父親の考え方にあったと言えよう。なぜならば幼年期、少年期に父とともにヨーロッパですごしているのは、母国語以外の語学の知識を習得させ、様々な学校における様々な教育を受けさせたいとする父親の教育方針にただやみくもに従っている内に、いつしかジェイムズもヨーロッパになじんできたといえるからである。それは一つの偶然的事実でしかない。そしてこの偶然が後のジェイムズを「郷愁的コスモポリタン」(七)にしたと考えられるのである。
ジェイムズが自らの生き方を決めようとした最初の対象は絵であった。父の教育方針に従って各地を遍歴している中にも十三歳をすぎたジェイムズの内面に独自の情熱が宿りはじめていたのである。その動機は何であったかはわからない。祖父の子孫の中で七人も画家になったことを知って、知らず知らず絵に興味を持っていたのだと解釈しようとする人もいる。「私は画家の生涯に入ろうと決心しました。一、二年の内に私は画家に適しているかどうかをはっきり知るでしょう。もし適していなければひきさがるのはたやすいでしょう。この世にへたな画家ほど悲惨なものはありません。」(2)十八歳になった時、ジェイムズは当時の交友にそう告げた。ジェイムズの父は最初ジェイムズの画家志望には「精神的危機」(八)がある故をもって反対していたが、その強制まではしなかった。
父はその心情を次のように述べている。「私達がここ[ボン]に着くや否や、ウィリーはある機会に、自分は画家になる天命を強く感じているので、自分の科学的教育のためにこれ以上の時間と金を消費する価値があるとは思わない、と私に言いました。……実はそう告げられて私は大いに驚き、少なからず悲しみました。というのは私はいつもウィリーには科学的生涯をあてづもりしていたし、又私の予想がこの点に関し実現される日が今にも来るであろうと望んでいるからです。しかし私は従う以外に何もできないし、又ヨーロッパに留まる動機が主に彼の教育に必要と考えるところからきていましたので、今や私達は喜んで家に帰り、ただちに彼にハント氏[絵の個人教師]をつけてやります。」(九)
われわれはここにジェイムズの父の、父としての寛大さを見る。しかしジェイムズは画家にならなかった。ジェイムズは決心した翌年に翻意して、父の望む通りの「科学的生涯」の道を歩んだのである。画家志望は青年期にありがちな一時的激情であったかもしれぬ。あるいは「へたな画家」になりたくないという誇りのせいかも、又才能の欠如を自覚するほどの冷静さのせいかもしれぬ。いずれにしてもジェイムズは将来心理学者、哲学者になるのであるが、そのかわり彼の論文はいずれをとってみても、われわれの理性を深刻にするよりも感性をくすぐる一幅の絵となって展開された。
ジェイムズが画家にならなかったのは哲学探究者にとって幸いしていたのか、ドラクロアの卵達にとって不幸であったかを考えるのは後世の人間のよくやる詮索にすぎない。しかしそれよりもここでわれわれはジェイムズに対する父の願望を理解しなければならない。なぜならば逆にアメリカの大哲学者エマーソンがジェイムズの父の前で生まれて数日しか経たないジェイムズを将来の哲学者として祝福するエピソードは、ジェイムズが本来的に哲学者であったと権威づけるにはあまりにも作られすぎているとしても、この際自らを哲学者、真理の追求者、人類の愛好者、研究者であろうと考え、又息子達にもそうなってほしいと願っていたジェイムズの父の気持ちの方を大事にする必要があるからである。かくてジェイムズは十九歳の秋ハーバードのローレンス・サイエンス・スクールに入り、まず化学から勉強をはじめる。この時ジェイムズはいかなる人間として見られていたか。
当時のジェイムズの指導教官であり、後にハーバーと大学の総長となりジェイムズを大学教授にまで登用したC・W・エリオットは次のような印象を書き残している。「私は一八六一−二年度にはじめてウィリアム・ジェイムズと接するようになった。……ジェイムズは大変面白く愉快な学生であったが、化学の研究には全く専念していなかった。化学の学生として登録された二年間、彼の仕事は病気あるいはむしろ繊細な神経質的体質であると思われるものに大いに妨げられた。他の科学や思想領域への脱線も稀ではなかった。彼の精神は逍遙していた。彼は実験、特に新奇な実験を好んだ。私は彼が非常なる心的能力と顕著な精神性と大きな人格的魅力を持っているというはっきりした印象を受けた。この印象は後にハーバード大学に有用となった。」(一〇)
このことはわれわれに何を伝えているのであろうか。まずわれわれはジェイムズの次の三つの特徴、即ち非常なる心的能力と顕著な精神性と大きな人格的魅力が単にエリオットにジェイムズを大学の講師に登用する気持ちを起こさせたという事実よりも、これら三つの特徴こそがジェイムズの哲学の導出される根源であり、ジェイムズ哲学そのものであることに気づくべきであろう。そしてこの頃から存在していた後のジェイムズの哲学的生涯は、エリオットの別の言葉を借りれば、「非体系的な逍遙」(一一)によって約束されていたのであって、学校における体系的な部分によっていなかったのである。勿論当時のエリオットはジェイムズにおける精神の逍遙が哲学として開花するとは思っていない。エリオットの印象の正しさはジェイムズを人間として評価したところにあるのであって、それが結果的にジェイムズをハーバード大学のみならず、ある哲学的思考にとって有用たらしめたのである。
ハーバード大学の学生であった頃、ジェイムズに最も影響を与えたのは、彼が化学科から比較解剖学及び生理学科に移った時に教えを受けたJ・ワイマンとL・アガッシという二人の教授であった。この二人は今日では専門畑の人によってしか知られない科学者であるが、彼らの性格と考え方は単にジェイムズに影響を与えたというよりも、ジェイムズそのものにもあてはめられると考えられるので書きしるされる必要があるだろう。性格的にはワイマンとアガッシは対照的であった。ワイマンは「証拠が決定的であるとわかるような時まで」(一二)精神に偏見を抱かせないし、判断を辛抱強く保留しているような実験主義者であり自然科学畑の人間であった。
ジェイムズにとって彼は「科学者の手本」(一三)であった。「彼の『ひかえめな』態度、彼の客観的真理に対する『完全にして純粋なる献身的愛着』、彼の『清廉さ』、彼の『精密さと徹底性』は科学者とは何であるかを具象化しているばかりではなく、ジェイムズの思索の放蕩性をたえず検閲する科学的良心の形成に大いに貢献した」(一四)とペリーは解説している。地味ではあるがすべての人が認めるワイマンの公正な意見が逍遙するジェイムズの精神に一時的な仮宿をとらないで根を生やしたようにしみこんでいったのは面白い現象である。ジェイムズのはじめての講義の「比較解剖学及び生理学」の内容がワイマンによって与えられた知識に負うところが多いといわれる如く、勿論ジェイムズは学問的にもワイマンに教えられるところが多かった。
しかしそれよりもワイマンの人となりがあの陽気にして精神的放蕩癖のある当時のジェイムズの心を奇妙にとらえたのである。「もう少しの野心的行動性、もう少しの、自己の目的のために他の人々を利用しようとする気持ちがあったなら、それは彼にもっと豊富にものを書かせ、大いに彼の影響度と名声を高めたであろうに。」(3)ジェイムズ自身、ワイマンへの弔辞の中でそう述べている。われわれはジェイムズが多産的著述家であったという点を除いて、性格と学問的態度においてこのワイマンと異なることにも気きつつも、少なくともこのワイマンの性格と学問的態度を見習おうとしていたことを容易に察知するであろう。
これに対しアガッシの方はどうであっただろうか、ワイマンは聖人であったのに対し、アガッシは英雄であり、巨人であった。彼は熱気に満ち、力強く、文句なく魅力的な人間としてジェイムズには思われた。とはいえジェイムズがこのアガッシの影響を受けたといわれる所以は単に二人の性格の類似性でもっては説明されえない。実は二人には科学に対する、そして物の考え方一般に対する共通のパターンが介在していたからなのである。
それ故ジェイムズはアガッシによって「科学的興味」を強くもつようになった。そしてアガッシが自らの教える学生に対し絶えず繰り返した二つの言葉「自然に行け、事実を自分の手でとりあげよ、自ら観察せよ」なる自らの言葉と「親しき友よ、すべての理論は灰色なり、されど黄金なす生命の木は緑なり」なるゲーテのファウストの言葉ほどジェイムズの心に深く刻まれたものはなかったのである。ジェイムズはこの強烈な印象について「私がアガッシと過ごした時間は、あらゆる可能な抽象論者と世界の具体的充実に照らされたあらゆる生活者との間の違いを私に教えたので、私はそれを忘れることはなかった」(4)と述懐している。
当初ジェイムズには一つのジレンマが存在していた。それは科学者の弟子ジェイムズとしてではなく、自らの精神に内在する哲学的傾向をもつ人間としてであった。そしてこの時ジェイムズにとって哲学とは事物における原因、価値、目的そのものであったため、アガッシの口癖は完全には理解できていなかった。しかしアガッシに対する唯一の疑問も彼と一緒に生活するにつれ消え去った。そして何よりもアガッシの次の言葉はジェイムズにとって冷水を浴びせる如き忠告となった。「ジェイムズ君、ある人々はおそらく君を聡明な若者と考えるだろう。しかし君が五十歳になったとき、彼らが君について話すとしたならば、こういうだろう。あのジェイムズ、おーそうだよ、彼はかつては大変聡明な若者だったな、とね。」(一五)
それは単なる抽象論で終わらせる人間に対する大いなる皮肉であり、ジェイムズにとっては彼自身の新しい哲学、あの調和的にして人々の感性をくすぐるような独特の哲学を打ち出す出発点になった。
さてジェイムズの人生にとっての最も重要な試練は二十代の後半に襲った肉体的精神的危機であっただろう。それ故われわれがこの数年の時期がそれまでに形成されてきたジェイムズの思想を内的にも外的にも開花させる触媒の働きを果たしたと考えるのは間違っていない。
それは何故なのか。弟のヘンリーが無関心な哲学者然としているのに対し、兄のウィリアムが陽気にはしゃぎ廻っているジェイムズ家の家庭の光景を最初に見た人は、その兄が実は繊細でショウペンハウエルやルナンを読んでいたとは誰が想像しえようか。否それよりもわれわれの主人公が病弱であり、自らの健康についての思いにとらわれるほど悩める人間であったということはわれわれの驚きを喚起する。彼の病弱が彼の繊細さにあったのか、逆に彼の繊細さが身体的欠陥をもたらしたのか、今のわれわれにはわからない。エリオットはそれを神経質的体質に求めていたが、いずれにしても事実としてジェイムズは一八六六年の二十四歳に健康を害し、不眠、消化不良、眼痛、背痛、憂鬱に呻吟しはじめていた。
皮肉にもその時彼は理学部から医学部に転籍していた。そして彼が自らの病弱を克服するために今日ではあきらかに非科学的で効果のないと判断できる治療法まで頼りにしたのは、彼がいかに身体的に苦しんでいたかを示す一つの例である。しかも医学部卒業後の彼の病状は次第に悪化し、二時間以上の読書でさえ不可能な状態に追い込まれたといわれる。このため勿論職に就くこともできなかった。身体的苦痛とそれにともなう憂鬱な気分はジェイムズの公けの生活をも破壊したのである。
その姿は健康を害した悲劇的なジェイムズをうきぼりにしたが、苦悩自身は彼の精神内において培われていた思想そのものの苦悩とパラレルな関係を維持しつつ、一人のジェイムズを同時に揺り動かしていた。即ち身体的苦痛は精神的苦悩をよびおこした。そしてジェイムズの生き方そのものにまで発展した。『宗教的経験の諸相』において他人の名を借りて書かれたジェイムズの以下の告白はジェイムズ研究家の誰もが引用するものであり、且つそれは引用される価値のある最も確かな資料であろう。
「哲学的に悲観主義的に、又自分の将来については精神が意気消沈していた頃、薄暗い更衣室に入った時、突然暗闇から来たかのように、自分自身の存在についての身の毛のよだつ恐怖が襲ってきた。それと同時に全く白痴で青白い顔、黒い目の癲癇病みの患者が心にあらわれた。彼は黒い目だけ動かし、全く人間には見えず、彫刻のエジプト猫か、ベルビアのミイラのようであった。その姿は自分だ、自分はそうなる運命からのがれられないのだ、そう感じた。この後世界は自分にとって全く変わった。毎朝、みぞおちに不気味な恐怖とこれまでにない生の不安を感じながら目覚めた。それは一つの啓示のようだった。その感じは日が経つにつれ弱まったが、数ヶ月は一人で暗い所に行けなかった。そして一般的に独り取り残されるのが怖かった。生の表面の下にある不安の落とし穴に気づかないで、どうして他人が生きていけたのか、どうして自分が生きてきたのか、不思議に思った。」(5)
ジェイムズの精神的危機は、いかに生きるべきかの信条を積極的に見いだせなかったことであり、煩悶と懐疑の繰り返しが続いたことである。精神的に自立しえること、それがまもなく三十の歳を迎えるジェイムズにとって必要な唯一の目的であったのである。にもかかわらずジェイムズの前にあるのは「道徳的無力感によってひきおこされる行為の麻痺」(一六)であり「生きるよすがとなる哲学の欠如」(一七)であった。そしてそれらによって「生存への意志」の衰えが生じたのである。生きるとは何か、実にこの平凡な問いかけは当時のジェイムズにとっては気晴らしでも知性の遊びでもなかった。そしてジェイムズにとって生きるとは道徳的に生きるの意味であった。勿論ジェイムズはそれ以前から道徳的に生きようとした人間であった。しかしこの時ジェイムズが道徳的に生きる意味をあらためて自分のものとした点が注目せられるべきであろう。「私はこれまでも道徳的関心に火を燃やそうとつとめてきた。それはある功利的な目的に達する手段としてである。」(6)
この自覚はある意味では逆に自らを拘束する道徳的関心に決別を告げ、道徳的であってしかも自由的であるという新しい考えをよびおこした。ジェイムズは「それ[道徳的仕事]に且つそれのみに従って、他のすべてのものを単にそれの素材とする」(7)生き方を正しい試練としたのである。しかもジェイムズはこの道徳主義を単にそれ自身で存在し、しかも現実に手をこまねくだけの至高のもの、即ち善のみを信ずるだけのそれとは考えずに、悪を積極的に克服する希望をもち、悪と闘う奮闘的なそれと考えていた。
この考えはルヌービエの意志の自由の概念から導き出したといわれる。一八七〇年のある日の日記には次のように書かれている。「昨日は私の人生における一つの危機であったと思う。私はルヌービエの第二『論文集』の最初の部分を読み終えた。そして彼の自由意志の定義−『他にいろいろな考えをもちうる時に、自分がそれを選ぶが故に、一つの考えを支持するということ』が錯覚の定義とされねばならない理由のないことを見いだす。ともかく今のところは−来年までは−それが錯覚でないと思おう。私の自由意志の行為は自由意志を信じさせることであろう。」(8)
そして具体的にジェイムズはどのような態度をとろうとしたのか。日記はさらに続けられている。「私は自分の本性が最も喜びをもっていた単なる思弁ととらえどころのないものの間での熟考、詮索をやめよう。そして自発的に道徳的自由の感覚を、それに好ましい本を読み同時に行為することによって、錬磨していこう。……救いは格率にあるのでも理想的見解にあるのでもない。思想の蓄積された行いにあるのである。……これまでは次の如くであった。自分にとってすべてを決定する外的世界の瞑想を注意深く待たないのに自分は自由な積極的人間であるように、又あえて独創的に行為しているように感じていた。そしてそのとき自殺が自分の敢行を決める最も男らしい形であるように思えた。今は、自分の意志でもって、さらに一歩を進もう。単に意志でもって行為するのではなく、同様に意志を信じよう。私の信念は、確かに、楽観的でありえるはずがない。−私は世界に対する自我の自治的抵抗力のもとに、生存(実在的であり、善である)を位置づけよう。生存は行為と苦悩と想像の中につくられるべきなのだ。」(9)
ジェイムズはこの期を境にして身体的危機はともかくとして精神的危機を克服していったといわれる。われわれはこの過程を一言で言うならばジェイムズのそれまでのものの考え方即ち思弁の対象であるものが信念のそれへと移行した時期と言えるだろう。
ジェイムズが哲学に自分の将来の方向を見いだすべく決意したのはアガッシのアマゾン探検隊に参加した二十五歳の時である。その時ジェイムズはアガッシによって自分の哲学の抽象性を暗に示唆されたが、しかし自分のとるべき哲学の具体的態度までは定めていなかった。ここにおいてジェイムズは自分にとっての哲学とは何であるかを明確に自覚するに至ったといえるだろう。
とはいえ、われわれはこの証左として述べられてきたジェイムズの身体的危機、精神的危機、そしてルヌービエの自由の概念への共鳴なる一連の過程はジェイムズの成長過程の象徴的説明にすぎないことを確認せねばならない。あまねく知られるジェイムズのこの過程の説明はあまりにも端的であるが、同時に後年のジェイムズの活動から推測すると最も妥当とされる解釈であると言えるだろう。
さらに注意されねばならないもう一つの点がある。ジェイムズのこの時期の象徴的ともいえるドラマの展開は決して神秘的、啓示的になされたのではないという点である。ジェイムズにおける苦悩は決して苦悩のための苦悩ではなかったのである。「ジェイムズほど本を読んだ者はいないだろう」というのが読書を当然の所業とする当時の思索家のジェイムズに対する一つの感想であった。眼病のため一日二時間しか目を使えない場合はそれだけ、それ以上使えればきっちりそれだけ読書した。妹のアリスが自分の読んだ本についてジェイムズに話したところ、いつも「僕は昨日その本に目を通し、読んでいるよ」(10)といったというのは有名な話である。
このエピソードはジェイムズの描写としての本質をついてはいない。重要なのはこの時期における読書が単に知識として役立ったばかりではなく、同時に「傍注をつけ、書物の要約を書きつけ、自分の考えを紙に系統的に述べる習慣」をつけたことである。即ちわれわれはこれによって後年のジェイムズの考え方の第一歩とあの「小説のような」文体の萌芽をみるのである。
ジェイムズがこの時期になぜこのように幅広く本を読みあさったのかを理解するためには、当時の彼には「自分はなにもしていない」という不安が精神的重圧となってきたことを知らねばならない。実際にはジェイムズが何もなしていないと考えるのは大いなる錯誤である。それならばなぜジェイムズは彼の内面において「自分は何もなしていない」と悩むのか。
この観点に立って考えるならば、われわれは何もジェイムズに高潔さを見る必要はないであろう。ジェイムズはごくありきたりの弱味をもつ人間であったのである。第一にジェイムズは病人特有のペシミズムにとらわれており、第二に大学を出て職もなく実際的生活の保障もないために、卑近な意味で将来を生きていくためにこの上もなく不安を覚えていたという理由がジェイムズの気持ちのすべてをわれわれに伝えているのではあるまいか。なぜならばジェイムズがエリオットの推薦により一八七二年ハーバード大学の生理学の講師に任命されて以来、病的なほどの精神的苦悩は勿論のこと、様々な形でジェイムズを苦しめていた身体的苦痛が薄紙をはぐようになくなり、完全とはいえないまでもジェイムズの病気はあらゆる意味で快復していったという事実があるからである。
同年に弟のヘンリーに宛てた手紙ははっきり次のように述べている。「私の目は日に三時間から四時間は役に立っています。……しかし自分が望むときはいつでも役立ってくれるだろうと確かに感じています。他の病状も次第に変わりつつあります。−あらゆる変化はよい兆しをもち、健康へと旋回しそうな傾向を示している、としかいいようがありません。無気力に襲われるのもどういうものか稀になりました。そのかわり健康な間が……だんだんと恐ろしい性格、即ち無気力と反対のもの、過敏、激発、不安の性格を帯びてきました。おそらくそのすべてはまもなく鎮まるでしょう。生理学を教えるという任命を受けたのは私にとってはまさに今や申し分なき神の賜物なのです。」(12)
又父にはその翌年次のように言っている。「ああ、今の私と去年の春のこの頃との私とでは何という違いでしょう。あのときは大変憂鬱であったのに、今や私の心はきわめて晴れあがり、健康は回復したのです。それは死と生の違いです。」(13)そしてそう告げられた父がジェイムズの変化の原因を尋ねたときに、ジェイムズがルヌービエ、特に彼の意志の自由の証明を読んだこと、かなり摂取しているワーズワースを読んだこと、しかし何よりもあらゆる心的不調が身体的基礎をもつことを要求しているという考えを捨てたことをあげたのは、ある意味で皮肉なジェイムズの弁解であろう。
ハーバード大学に就職してからのジェイムズについてわれわれは詳細に知る必要はないだろう。確かにハーバード大学在籍中の三十五年間は期間的にはそれまでのジェイムズの生きた年数を上回るものであったが、彼の人生観、世界観を根本的に変えるほどのバラエティーには富んでいないのである。むしろわれわれはジェイムズの後半生がそれまで蓄積されていたジェイムズの考えが様々な表現形態でもって開花していった時期なのだと解釈するのが無難である。
この間ジェイムズがハーバード大学において、その中の生理学、心理学及び哲学の各部門において講師から助教授、そして教授へといった恵まれた地位を確かにしながら、ひたすら学生に対する教育活動、講演、執筆活動を続けたという事実は、ジェイムズの思想の素材を提供したと、それ故ジェイムズ解釈家にとっては不可欠な期間であると判断されても、生涯の有様の特別なる変遷を必要とする伝記作家にとっては陳腐なものでしかないであろう。
ただわれわれはジェイムズを理解するに次の点だけは確認する必要があるだろう。ジェイムズの最大の著書が『心理学原理』であるといわれるように、一般に彼は心理学者としても知られている。しかしジェイムズ自身が常に考えていたのは哲学であるという点である。
この考えにたてば、若きジェイムズの思想の放蕩性は哲学者になるための実験であり、それによってジェイムズは哲学以外のすべての学問が自分にとって不適であることを知らされたとも言えるであろう。アマゾン探検の途中で家族に送った手紙の中の「私は家に帰ったらすべての日々に哲学を研究するつもりです」なるジェイムズの決意は気まぐれでも何でもなく、ジェイムズの生涯をかけた告白なのであった。
それではジェイムズはなぜ十二年間にわたって『心理学原理』なる大著にとりくむ情熱を維持しえたのか。実はジェイムズを心理学者として不朽ならしめた『心理学原理』は全くジェイムズの学問的野心から出たのではなく、彼以外にある要因が働いて、世に出たのである。即ち第一に生理学の講師に就任したことであり(経済的安定をえるためであったが)、第二にそのためにジェイムズは心理学にかんする著書を出すべく要請されたことである。(当時心理学はまだ生理学の中に入っていた。)従って出版に至るまで十二年の歳月を要したのはジェイムズの心理学そのものに対する情熱からではなく、学問的良心からなのである。しかしそれはジェイムズにおいても覚悟された上での話であった。
生理学の常勤講師の話がジェイムズにもちかけられた時、終生それに関係せねばならないと考えたため煩悶したが、結局次のように考えてジェイムズはそれを受諾した。「私の最も強い関心はたえず最も一般的な問題とともにあるだろう。……私の最も強固な道徳的知的切望は依存すべきある堅固な実在にむけられている。」(15)しかし、「私は人生において他のより高貴な運命(哲学的人生)を選択するほど強い人間ではない。ただ他の職務の中にあってさして侵害しないやり方で哲学をやりとげることができる。」(16)
ジェイムズはこの決意を『心理学原理』を執筆する中で見事に結実させている。ジェイムズはこの著作によってブントとならんで現代心理学の重鎮と称せられ、そのため不本意にもそれ以後しばしば心理学に関係(講演とか教科書版の作成等)させられたが、心は心理学をはなれていた。その出版にあたってジェイムズはその責任者に次のような手紙を送っている。「その本を見て、私ほど嫌悪している者はいないだろう。千頁の中にとりあげられるべき価値のある主題はない。もう十年もあればそれを五百頁にできるだろう。しかし実際この本はいまわしく、ぼってりとして、はれぼったく、高慢ちきで、水っぱれのかたまりそのものである。そして二つの事実しか明らかにしていないのである。その一つは心理学の哲学なるものはないということ、その二つはウィリアム・ジェイムズは無能であるということである。」(17)
これほどまでに自著に嫌悪を示したジェイムズは、しかしながら、この大作においてすでに離れつつあった心理学に対する考えと彼の学問的良心を和解させるという離れ業をやってのけているのは興味深い。即ちそこに意味されているものはまさに哲学的内容なのである。もし『心理学原理』なる名前が冠せられなかったならば、そしてその題目上やむをえず論述されているかのような、人間の心的態度、哲学的態度の心理学的説明ないしは身体的反応の説明がなかったならば、われわれはこの書をロックやヒュームの『悟性論』『人性論』に勝るとも劣らぬすぐれた哲学書であるとみなすことができるであろう。
以上でもってわれわれはジェイムズ自身に関する直接の記述を終わろう。次いでわれわれはジェイムズの家族との交流をエピソディックに触れて、彼の人格の一面を見ることにしたい。
われわれはジェイムズの父についてはすでに知ったが、母については一言も言及されていないのに気づくのである。残された文献を見ても、母についてはあまり書かれていない。その上、弟ヘンリーの小説にも母らしき人物のことは詳しく記されていない。それは何故なのか。ジェイムズ兄弟の母はきわめて控えめな、そして静寂を愛する婦人であった。それ故ヘンリーにとれば「母の記憶はあまりに神聖であった」(一八)し、ジェイムズには母は、それを語るとその神聖さがこわれると感じられるまでの敬虔な心の持ち主であったのであろう。しかしジェイムズの子供がこの祖母の「なみはずれた精神の受容性と美的感受性」(一九)がジェイムズとヘンリーにうけつがれたと言っているのを見ても、ジェイムズの母に負うところ多いと考えても間違いではないだろう。
弟のヘンリー・ジェイムズについては今さら述べる必要もあるまい。陽気で一家の中心であったウィリアムに比べ、ヘンリーはどちらかと言えば母に似てじっと心の中でかみしめている情熱家であった。彼らはお互いに尊敬しあい、影響しあっていた。二人は後に独立して別々にくらしたため、さかんに交わされた書簡はジェイムズとその弟の研究にとって彼らの思想と性格を知るのに大いに役立っている。
ジェイムズ家に他に二人の弟と一人の妹がいる。二人の弟はウィリアムやヘンリーと全く違った生き方をしている。彼らは南北戦争に従軍した後は、農園での生活を送った。彼らに関する文献も少なく、従ってジェイムズを伝えるに恰好の文書も残っていない。
ただたった一人の妹に対してはジェイムズは限りない愛情を示した。彼女は快活であったが、一生を通じて病弱であった。彼女はロンドンで療養生活を送ったため、ジェイムズには直接彼女と会う機会が少なかったが、その不幸は妹に対する数多くの書簡でもって償われ、かえってジェイムズ研究家にとって幸いした。
中でも特筆すべきなのは余命なき妹を感じて彼女に送った哲学者ジェイムズの次のような励ましの手紙であろう。「……すべての人が知るように[おまえの場合は]限られた日々が残されているということ、そしてそれからは[お前の]神経衰弱や神経痛や頭痛とも、又疲労や動悸や吐き気ともわずか一撃のもとでおさらばするということです。−私はお前がそのプラスとマイナスをもった将来をあまんじて受けることと思いますよ。私はお前が生を気にしていないことを知っている。五十の歳に近くなった今の私には生と死はわれわれすべてにおいて非常に接近しているように思う。お前の不屈の精神、明るい心、感傷的でないことは身体的苦痛に打ちひしがれている中で比例なきものだ。お前が自分のその体から解放される時、その輝ける特徴そのものは……背後に残るだろう。その中には所謂科学に対して語られてきた以上のものがあるのだよ。……お前の生の終わりにこんな冷淡な方法で話すのは変に見えるかもしれない。しかし人が自分の心にあらわれるものをもっているならば、そしてそのものがお前の心にも十分あらわれていると私が覚知しているならば、どうしてそれらについて話し出してはいけないのか。そのことはお前が一番理解していると思う。……ほどなくお前は自分の行くべきところへ行くであろう。それまでは静かに耐えていなさい。あたかも生が百年続くかのように毎日少しの善を探し求めなさい。何よりも身体的苦痛からはなれなさい。好きなだけモルヒネをとりなさい。そのために麻薬中毒になるのを恐れてはいけません。このような時を除いて何のために麻薬はつくられたのですか。」(18)ジェイムズは同じ趣旨の手紙を父の死にあたっても送っている。この一見ジェイムズらしからぬ手紙はわれわれに彼の考えの奥底を逆説的に伝えているとも見られる。
最後にジェイムズ夫人について。ジェイムズは三十六歳の時、知人を介して紹介されたその翌日に「未来のジェイムズ夫人」(19)と書きしるしたアリス・ギベンスと結婚している。あの精力的につくられたジェイムズの学問的業績は夫人の才知と家庭管理の優秀さに負っているとも言われる。「誤らぬ理解と快活さをもってジェイムズのあらゆる計画と仕事に加わっていた彼の妻は彼の書斎の入り口に注意し、邪魔や妨害から守り、家政と子供と家事をとりしきり、彼が日課を整理したり、適当な時間に友人に会い接待するのを助けたり、時々必要な休暇をとらせたり、重要なあらゆる仕事には彼を勇気づけていた。」(二一)
ジェイムズ自身、彼女がいない時「一人に取り残され、私の観察と警句、希望と不平のすべてを注ぎ込むいつもの耳を奪われた」(20)と話している。このジェイムズ夫婦には五人の子供があったが、この内の一人がジェイムズの死後、いくつかの遺稿集と書簡集を出してくれたので、われわれの研究に大いに役立っている。
ジェイムズは一九一〇年、六十八歳で死んでいる。その死の年、ジェイムズは病気療養のために最後の渡欧をしている。だが効果なく死期を感じたジェイムズはアメリカで死ぬべく必死の思いで帰国した、と言われる。
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